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チームスタッフ☆ブログ

母の日

2019/05/12

のぶです。


今日はチームから
ちょっと離れようかあ。

たまにはいいやろ。



母の日。
母ちゃん
息子は37歳になりました。

今この環境で仕事ができているのは
あなたが毎日弁当つくって
試合の日は親父と毎回応援に来てくれて
中学を卒業後、親父の後を継ごうと漁師になると言った俺に、親父が
俺はまだ元気やからあと3年野球しろと。
おいおい
今から勉強はキツいぞと。。
思ったが
何とか高校に行けた。。
まぁ糸島高校は
弱いチームでした
中学まで陸上部、美術部。。
さまざまな先輩がいた。
完全に俺はその先輩をなめていた(笑)
今もだが(笑)

高校3年の夏はいずれ東京ヤクルトに入団する一本エース
西崎聡のお陰で
42年ぶりの県大会
48年ぶりのベスト8まで野球をできました。
そのときもスタンドで応援してくれていました。

そしてプロに進むときも、
母ちゃんは冷静でした
社会人からもお誘いがあり
将来のことも考えたら社会人野球やって
それからでもプロは遅くはないよと。
そのときのことは覚えています。

でも俺は
行けるなら今行って
プロのレベルで野球がしたいと。
そしてダメだったら
福岡に帰り漁師をしようと思っていました。
そして8年が過ぎ、俺は2児の親父に。

漁師にはなりたかったけど
弟がしっかりと親父の後を継ぎました。
福岡に俺の居場所は無くなり
球団でお世話になることにしました。
俺は翌年からマネージャーを受けました。

それから少しして
俺の親父は他界。その日は海老名で試合をしていました。
俺はファームのマネージャー。
チームに迷惑をかけたくなかったので
球団にもそのことは伝えていたので
死に目には立ち会わないことにしていました。

しかし試合後
当日ファーム監督の白井さんに
お前は辛いからそばにいたくないかもしれないが、親父さんはお前にそばにいて欲しいに決まっとるやろ!って

そのときの
後悔が半端なかった。
そんで、福岡に着いたときには
親父は亡くなっていました。
間に合わんかった。
でも
親父を見て涙は出んかった。
めっちゃ我慢したから
俺が泣くと母ちゃんが悲しむと思って
気さくに長男らしく身内に振る舞いました。
葬儀も終え
横浜に戻り
業務につきました。

福岡に母ちゃんを残しているけど
そんとき、そんときは
これ以上ないぐらい
親孝行して母ちゃんを大事にしよと思うけど
人間って勝手やから
忘れるんよ。自分の気分やタイミングで
めんどくさがるんよ。
俺もその一部(笑)

で、またこれを書きながら
あ。
母ちゃんをって、思うんよ。
それの繰り返し。



まぁ。
何が言いたいかというと。
親は親
親からしたら37歳でも俺はまだまだ
子どもなんよ。
なんかあったら
全力で助けてくれるのは親なんよ。
嫁が100なら親は150ぐらいかなぁ。

だから
みんなも
親には常に感謝しとき。

父の日
母の日ってあるのは
そんなことを思い出させてくれる日と俺は思っとる。


みなさん
そこに書いた今までの簡単な
流れがあるように
皆さんにもいろんな
親との流れがあると思います。
もっかい思い出して
親に感謝しとこ。


では
親父 かーちゃん
ありがとう。


あと。
かーちゃんに一言。
実家の
車のシートにベイスターズのアンダーシャツを被せるのやめて。
最近も横浜の友達がのぶの家見つけたよ。と
なんでわかったか?と聞くと
シートにベイスターズのアンダーシャツがと。。
これも子を想う愛情なのか。。




では

親は大事にしよう。


そして親になったら
俺も大事にされたい(笑)